ばんば踊り

ばんば踊りとは

延岡市 まつりのべおか

「ばんば踊り」は、現在主流となっている「新ばんば踊り」とは異なり、口説唄で物語風に長い歌詞をもつ踊りで、江戸時代から伝わっていると言われる伝統芸能です。その起源は延岡のそれぞれの地区で踊られていた盆踊りなのです。

盆踊りについて

「盆おどり」が文献に出てくるのは室町時代ですが、盆踊りは念仏踊りから発展したもので、念仏踊りは平安時代に空也上人(くうやしょうにん)が教えを広めるために躍動して踊る方法をとり、さらに鎌倉時代になって一遍上人(いっぺんしょうにん)が信州(長野県伴野村)踊り念仏を始めたことが民衆の共感を呼び、盆行事や豊作感謝、雨乞いなどと重なり合い、また、人情、仇討ち、出世物語などの音頭(口説)が念仏の代わりに流されるようになったということです。
盆踊りは民衆が祖先の霊を慰め、豊かな実りを願って、その全身で伝承してきたものなのです。

延岡の盆踊り(ばんば踊り)の起源

延岡市 まつりのべおか

延岡に伝わる「ばんば踊り」は、その踊りに使われる「音頭(口説)」の内容から相当古いものと考えられていますが、一説には、踊りと密接な関係にある音頭(口説)の文句に、江戸後期に民衆文化として親しまれた歌舞伎、浄瑠璃の内容がふんだんに盛り込まれていることから、江戸時代後期に盛んになったと伝えられています。

延岡の場合には、踊りの中核となる音頭(口説)として「白石ばなし」など多数あります。また、その音頭は、明治末期までは堤防工事や橋梁工事、護岸工事などの地固めや杭打ちの際にも労働歌としても使われていました。

延岡のばんば踊りはどこから?

延岡市 まつりのべおか

日豊線開通(大正11年)以前、延岡の政治・経済・文化や物品が海運(千石船)によって、代表的な土々呂や東海の港にもたらされていました。ちなみに、その中でも大武港、東海港は古くから播州赤穂(ばんしゅうあこう、現在の兵庫県)との交流の拠点であり、徳川時代には参勤交代のため欠くことのできない港でした。
延岡の「ばんば踊り」は、その千石船を通して大武港や東海港に伝わり広まることとなりました。

ばんば踊り 語源の諸説

延岡市 まつりのべおか

踊りと切っても切れないものが音頭であるが、延岡の「ばんば踊り」は、兵庫節とも言われる。
千石船で播州赤穂から様々なものが入ってきているが、その際、その「播州踊り」がなまって「ばんば踊り」になったという説。

江戸時代に、時の藩主が豊作を祝うために「馬場(ばんば)」に農民達を集めて盛大な盆踊り大会を開いた。
それ以来、盆踊りの呼称が「馬場踊り」となり、さらに「ばんば踊り」になったという説。
※実際に東京都にも「新馬場(しんばんば)」という地名が実在する。

九州東部の方言で、「激しい」、「にぎやか」というのを「ばんばん」という。
そういう激しい踊りということで呼ばれたという説。

「ばんば」の語源については3説がありますが、播州赤穂との経済交流があったことなどから、「播州踊り」がなまって「ばんば踊り」になったという説が有力となっています。

新ばんば踊りの誕生秘話

時代の流れとともに、戦争中の空白もあり、音頭をとる人も少なくなりました。戦後の混乱が収まるにつれ、各地のお盆行事も復活し、「ばんば踊り」も行なわれるようになる中で、「延岡のばんば踊りの音頭に地方色を加えて、誰でも楽しめる歌詞にし、全ての市民が踊れ、見物人がいない踊りの輪となるように」という意見が昭和27年頃に起こりました。

こうした声を受け止めた当時の延岡市長 折小野良一(おりおの りょういち)は、小倉の「ぎおん太鼓」や徳島の阿波踊り」など市民総参加で情熱を傾ける姿を延岡にも植えつけたいと、延岡市出身の音楽家、権藤円立氏と話し合い、同じく延岡出身の作曲家で、松竹歌劇団の演出家であった並岡龍司氏に相談。
『伝統のばんば踊り』に新しい命を加えようということになったのです。

そして、故・村田英雄氏を歌い手にむかえ、昭和37年に「新ばんば踊り」が誕生しました。

※伝統の「ばんば踊り」を基調にし、地方色を盛り込み、現代調を加えた「新ばんば」の歌詞と踊りは人気を集め、急速に普及していく一方で、「ばんば踊り」は伝統芸能として延岡市郷土芸能保存会(昭和46年結成)により、大切に伝承されています。

備考

【お問い合せ】延岡観光協会
【電話】0982-29-2155

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