後藤勇吉

 初の日本一周飛行に成功した延岡出身の空の先駆者

後藤勇吉

後藤勇吉は明治29年11月12日、延岡市南町に生まれました。
山産物商と醤油醸造業を営む家の4男3女の7人兄弟の4男で、極めて裕福な家庭でした。

子供の頃から機械に興味をもち、旧制中学に入る頃には見よう見まねで図面を引き、蒸気機関付きの精米機や水上自転車を作って周囲を驚かせ、当時、延岡に3台しかなかったオートバイを乗り回していました。
飛行機に興味をもったのもその頃〔ライト兄弟が人類初飛行に成功したのが1903(明治36)年〕です。
当時、勇吉は飛行機の勉強をするためアメリカ留学を言い出し、両親を困らせたこともありました。

父は、卒業後は機械への興味を活かし、工業関係の学校進学を勧めましたが、勇吉は飛行機一筋。
父の説得によりまず自動車を研究することで話は落ち着き、卒業後上京し、ヤナセ自動車で無給の工員として働くことになりました。

19歳の勇吉は、朝6時から夜8時まで熱心に働きましたが、飛行機への情熱はあせることなく、翌年には会社を退職、民間初期の飛行家、白戸栄之助の助手となります。
大正5年、日本最初の複葉水上飛行機を製作し「巌号」と命名し、これを使って飛行大会を計画しましたが、途中機体が故障し、大会の主催者から契約不履行で機体を差し押さえられてしまいました。
助手として参加していた勇吉は、白戸と交渉し、父親から出してもらった四百円(当時2軒分の家が立つ金額)で巌号を貸与してもらいました。

巌号は門川の加草海岸に運ばれ、勇吉は独力で飛行訓練を始めます。
まだ鉄道も通っていない延岡にいきなり飛行機がきたのですから、人々の驚きは並ではなく、連日黒山の人だかりでした。
しかし、一向に機体は浮上せず、試行錯誤の末、ようやく11月2日、最初の直線飛行に成功しました。(勇吉21歳)

大正9年(勇吉25歳)には、父親から5千円という援助を受け「富士号」を完成させ、全国各地で開催される飛行大会で常に上位入賞を果たし、9月には延岡への訪問飛行を行い、郷土に錦を飾りました。

そして航空法が施行された大正10年、日本初の一等飛行士・一等操縦士の免許を手にし、翌年には日本最初の旅客輸送飛行を成功させました。

2回目の郷土訪問飛行は、大正12年4月に行われ、延岡大会では母(チカ)を同乗させ、また宮崎一ツ葉海岸では5万人もの観衆を酔わせ、見学した宮崎第二小学校6年生が『鳥か神か』という感動の作文集を作っています。

大正13年には「春風号」により、日本一周飛行に成功し、大正15年には大阪~京城~大連航空輸送航路での飛行計画全般を主催指導し、京城から約千通の郵便物を大連まで運び、日本航空史上初の海外郵便物空輸を実現しました。

また、昭和2年には郷土の発展のため「日向カボチャ」を大阪へ空輸。
これが日本初の生鮮農産物の空輸でした。
これは、後にJA延岡が推進する「空飛ぶ新たまねぎ」命名の基となります。

同年、米国のリンドバーグが「スピリッツ・オブ・セントルイス号」により、大西洋横断飛行に成功したという一報が入り、勇吉達を太平洋横断飛行へと駆り立てました。
横断飛行のメンバーも決まり、飛行訓練中であった昭和3年2月29日、長崎県大村海軍航空隊基地を飛び立った訓練機は、霞ヶ浦への途中、佐賀県藤津郡七浦村多良岳北山麓に墜落し、三名の飛行士の中で勇吉だけが焼死しました。享年33歳でした。

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中学2年当時の写真(画像左)
 自作のゴム動力双発模型飛行機を手にしていることから、その当時より飛行機に興味を持っていたようです。
撮影時期不詳(画像右)
 
もっとも状態の良い写真のひとつです。

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勇吉と愛妻・キクヨ夫人、長男・高行の親子3人の写真(画像左)
 非常に貴重な1枚です。

日本一周飛行を終えた春風号の前で(画像右)
 左から、諏訪氏、勇吉、米沢氏、関口氏、海江田氏。

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休養日に行縢(むかばき)山で遊んでいる様子