行縢臼太鼓踊り(むかばき うすだいこおどり)とは、天正6(1578)年、豊後の大友宗麟が日向に攻め入り、薩摩の守る高城を包囲したとき、島津軍の伊集院という大将が自軍の士気を鼓舞するため、諸隊に命じて陣太鼓、法螺貝、鐘を鳴らして躍らせたことが由来となっています。
この踊りを見た大友軍は、「戦陣で音曲、踊りとは」と嘲笑し油断し、その隙に島津軍はあらかじめ仕組んでおいた堰堤を切り落として大友軍の大半を溺死させ、大勝したと伝えられています。
この時、平田美濃守光守という豪傑は、40貫(約150㎏)もある大臼を首に掛けて踊ったと言われ、後になって、この平田一族が浪人となって南方に住み着き、この踊りを伝えたものが「行縢臼太鼓踊り」になったといいます。
「行縢臼太鼓踊り」は、大友氏に滅ぼされた土持氏や行縢大日寺宗門徒の一揆供養のために始められました。後に、五穀豊穣や雨乞いなどのために行なわるようになったと言われています。