日本を代表する歌人「若山牧水」
坪谷村と若山家
牧水が生まれ育った坪谷(東郷町)の若山家は、牧水の祖父健海に始まります。健海は埼玉県所沢の農家に生まれ、13歳の時江戸に出て薬屋の丁稚奉公をしました。
その頃坪谷出身の水野栄吉と友達になり、一度日向に遊びに来るよう勧められました。健海18歳の時、長崎に来て、医学と蘭学を研究し、26歳の時に坪谷に来て、そのまま住み着き、水野の娘カメと結婚し、医者として開業しました。
二人の子に恵まれ、共に医学を学び、長男立蔵が坪谷で父の後を継ぎ、弟の純曹は山陰で開業しました。
立蔵は、延岡出身の長田マキと結婚し、スエ、トモ、シヅ、そして繁(牧水)の4人の子ができました。
おもひやる かのうす青き 峡のおくに われの生まれし 朝のさびしさ
牧水誕生
牧水は、明治18年 8月24日の朝生まれていますが、座敷に寝ていた母は掃除のため縁側に移され、そのまま産気づいて縁側で生まれています。
役場へ出生届を出す日、祖父は遠方への用事があり、「玄虎(げんこ)」という名にするよう言い残して出かけました。ところが二人の姉が不服を唱え、祖父の留守をいいことに「繁(しげる)」という名にして届け出てしまいました。
当時、東京絵入新聞の連載モノに出てくる女傑に自ら男装してまで学問をした葉山志計留という勉強家にあやかった名でした。
幼年期の牧水
幼い頃の牧水は虫歯に悩まされました。痛みで泣いている牧水を、母は膝に抱き上げ一緒に泣き、またある時は牧水を背負って坪谷川に魚釣りに行って痛みを和らげようともしました。
歯を痛み 泣けば背負いて わが母は 峡の小川に 魚を釣りにき
この頃、母は山に入ってワラビを摘み、竹の子をもぎ、栗を拾うことが好きで、また山に行くときは弁当を作って牧水を連れて行き、昼になると景色の良いところで昼食を取りました。こうした幼い頃の生活が、牧水に自然を愛する心を育てたと言われています。
延岡高等小学校時代(明治29年 4月~同32年 3月)
牧水は、高等小学校時代の 3年間と中学校時代の 5年間という最も多感な時期を延岡で過ごしました。
牧水が高等小学校(現延岡市役所の地)三ヵ年を修業して中学に担任であったのが日吉昇先生です。
日吉先生の特に高い文学的教養は授業にも強く現れ、日吉学級の子供達に深い影響を与えました。牧水は早くから国語の成績が良く、朗読のうまいことに先生はびっくりしたといいます。
ずっと、この先生が担任であったことは、牧水の文学的傾向に大きな感化を与えました。
県立延岡中学校時代(明治32年 4月~同37年 3月)
牧水は、延岡中学(現在の延岡高校)の第1回生として入学し、寄宿舎「明徳寮」に入りました。
当時の校長は、東大を卒業したての山崎庚午太郎氏で、文学や歴史に造詣が深く、牧水らに校友会誌を作らせました。
梅の花 今やか咲くらむ 我庵の 紫の戸あたりの 鷺の鳴く
2年の時、初めて歌を作り、校友会誌に投稿した3首のうちの一つです。このときの歌を山崎校長は激賞し、牧水はこの激賞によって歌を作る楽しみと自信を得たと言われています。
中学在学中に新聞や雑誌に投稿した歌は五百首を越えています。中学5年の秋頃から雅号を「牧水」としました。
牧水は、県立延岡中学校を7番の成績で卒業しました。
早稲田大学時代(明治37年4月~明治41年7月)
大学時代では、歌を尾上柴舟先生について学びました。また、詩人の北原白秋とは同期で、2回同じ下宿で勉強した親しい間柄です。
当時、白秋は「射水」を号し、他に歌の友に中林蘇水がおり、「牧水」「射水」「蘇水」が早稲田の『三水』と呼ばれました。
明治40年の夏休みには、中国地方を旅行して帰省しています。途中、岡山県の山手の二本松峠(哲西町)の茶屋から友人に差し出したハガキに二首の歌が記されていました。
幾山河 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく
けふもまた こころの鐘を 打ち鳴し 打ち鳴しつつ あくがれて行く
その後、宮島に遊び、山口から耶麻渓を訪ねています。
安芸の国 越えて長門に また越えて 豊の国ゆき ほととぎすきく
牧水は、明治41年7月5日に早稲田大学を卒業しました。卒業と同時に第一歌集『海の声』を出版しましたが売れず、古本屋に売ってしまいました。
坪谷では、父母が息子の晴れ姿を一日千秋の想いで待ち、村人は初めて村が出した大学卒業生に期待しましたが、8月を過ぎても帰らず、ようやく9月に帰ってきますが、そのみずぼらしい姿で帰ってきた牧水に両親は落胆し、村人は冷たい目で迎えました。20日ほど滞在し歌を残し旅立っていきます。
父の髪 母の髪みな 白み来ぬ 子はまた遠く 旅をおもへる
歌壇の花形、そしてさすらいの旅
明治42年 7月、中央新聞社会部に記者として入社しますが、12月には退社します。明治43年4月、第三歌集『別離』を出版、この歌集で牧水は歌壇の花形となり、前田夕暮の歌集『収穫』とともに高く評価され、歌壇に「牧水夕暮」時代を画するに至りました。しかし、生活は至って貧困でした。牧水は悩み苦しみ、同年9月、さすらいの旅に出ました。
甲府の友を訪ねた後、小諸で医者をしている友を頼り、彼のすすめで2ヶ月滞在し、96首の歌を作っています。
白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり
石川啄木の死
明治45年4月13日、歌の友、石川啄木は死去しています。
その前日に牧水は雑誌のことで啄木を訪ねました。啄木は病床に臥しており、枕元にあった薬箱を示し、「この薬を飲めば病気は治るが金がない。貸してくれないか」と頼まれるも、牧水自身も金はなく、友を訪ね歩いたが金はできませんでした。
啄木の家に戻ると、机の上に啄木の死後出版された歌集『悲しき玩具』の原稿があったので、それを東雲堂書店にもっていき20円を借りて啄木に渡しました。啄木は涙して喜んだと言います。
次の日、啄木危篤との知らせを受け、急いでいくと奇跡的にも啄木は目を開き、薬のこと、雑誌のことを話しましたが、再び危篤状態となりました。牧水は医者を迎えに走り、帰ってみると啄木の枕元にいるはずの啄木の長女京子がいません。
牧水が落ちている桜の花でままごとをしていた京子を啄木のところに連れてきた時には、既に息を引き取っていました。
はつ夏の 曇りの底に 桜咲き 居り衰へはてて 君死ににけり
太田喜志子と結婚
同年5月、牧水は結婚しました。結婚式を挙げる金はなく、間借で結婚生活を始めました。
夫人は翌日から近所の遊女の着物を賃縫いして生活費を稼ぎました(次の二首がその頃の作歌)。
家に三つ 二つ蚊の 鳴き出でぬ 添ひ臥をする
かんがへて 飲みはじめたる 一合の 二合の酒の 夏の夕暮れ
父の病気のため帰省、父の死
結婚2ヶ月後に、牧水は「チチキトクスグカエレ」の電報を受け取り、急いで帰省します。父の病気は案外軽く安心しましたが、待ち受けていたのは親族会議でした。
「父が倒れた今、このまま留まって、村の小学校か役場に勤め、家を建てよ」と諭されます。
父が全快するまで、留まろうとは考えていましたが、白眼視されている故郷では就職する気になれず、牧水は毎日憂鬱な日々を送ります。時折、生家の裏の小高い丘にある大石(現在歌碑になっている。)に座り、尾鈴山を真向かいに眺めながら、自分の将来に想い悩みました。
ふるさとの 尾鈴の山の 悲しさよ 秋もかすみの たなびきて居り
父は11月14日に急逝します。初七日はすぐに親族会議となり、前以上に強く家に留まるよう迫られました。
牧水の悩みは一層深くなり、見かねた母が上京を許しました。母は、その後助産婦をして細々と暮らしを立て、息子の大成を願いました。
下浦海岸に転居
大正4年の4月から翌年11月まで、喜志子夫人の静養のため、下浦海岸に転居しました。
白鳥は かなしからずや 空の青 海の青にも 染まずただよふ
沼津への転居
大正8年頃になると、歌人若山牧水の名声は高く、多くの歌の友が来訪するようになりました。
仕事をする時間もなく、子供達もあまり健康体でなかったため、大正9年8月、東京から沼津に転居しました。三人の子供は急に広くなった家や庭に大喜びでした。
香貫山 いただきに来て 吾子と遊び 久しく居れば 富士晴れにけり
大正11年3月、牧水は山桜の歌を作りたいと、伊豆の湯ヶ島温泉に3 週間ほど滞在し、23首の首を作りました。
うす紅に 葉はいち早く 萌え出でて 咲かむとすなり 山桜花
うらうらと 照れる光に けぶりあひて 咲きしづもれる 山ざくら花
亡父13回忌のため帰省
牧水は大正13年3月、父の13回忌の法要を営むため長男・旅人(たびと)を伴って帰省しました。
旅人を連れて帰ったのは、祖父の墓に参らせ、久しぶりに祖母に逢わせ、自分の故郷を見せておきたかったからです。
牧水は、既に日本を代表する歌人であり、村では大歓迎会が開かれ、母と共に招かれました。謝辞の中で、牧水は「自分の今日あるは母のお陰です」と母への感謝を涙ながらに述べました。また、幼な友達がけやきの木の板を持参し、氏神にあげる歌を書いてくれと頼みました。
牧水は直ぐに筆をとり、
『久し振りに故郷に帰り来たれば旧友矢野甲伊、富山豊吉の両君この板を持参して氏神に奉る歌を書けという。即ち氏子の一人若山牧水』
うぶすなの わが氏神よ 永しへに 村のしづめと おはすこの神
二人は直ぐに坪谷神社に奉納しました。
牧水の生家の隣に矢野寅吉という爺さんがおり、「繁坊々々」と呼んでかわいがり、牧水も「寅おぢやん」と親しんでいました。その老人が来て盃を交わしました。
その際、「お前もこんなに偉くなると繁坊じゃあるまい なんと呼ぼうか」と言うと、牧水は「いやいや死ぬるまで繁坊と呼んでくれ」と言って短冊を送りました。
お隣の 寅おぢやんに 物申す 永く永く生きて お酒飲みませうよ
※裏には、「矢野寅吉おぢやんに贈る歌 お隣りの若山繁坊」と書いています。
親友の那須九市が孝行の歌を書いてくれと頼んだところ、「僕は不幸の子だから 孝行の歌はできないよ」と断ったが、是非にと頼まれ、作った歌。
老いゆきて 帰らぬものを 父母の 老いゆく姿 みまもれよ子よ
牧水は、亡父の法事を滞りなく済ませ、母を伴って沼津に帰る途中、延岡における牧水門下の一人で牧水を歌の師として敬愛していた谷自路(次郎)の家に立ち寄っています。
日頃から敬愛している牧水が突然来るということで、自路は胸躍る喜びとともに自分一人では役不足と考え、延岡新聞社長の佐藤和七郎氏に応援を頼みました。
この時の様子を自路は随筆「牧水と酒 ~暁の一本~」の中で、
「先生(牧水)の飲みぶりは独酌の時はもちろんであるが、まことに静かで酒を飲むことを、心から楽しむ、愛するという風に、口にふくんでは 呑み、悠々と迫らぬ風格が見ていて気持ち好いものであった。しかし今夜は旅人君も同伴であるので、徹夜して鯨飲する程には至らなかったが、それでも時計は 午前に廻っていた。佐藤さんが帰宅されて、いざ床につかむとした時、先生は小声で、『君、枕もとに一本頼むよ』といって前後不覚であった。その日の酒間中、僕は先生の歌集『くろ土』を持ち出して記念にお願いしたのだが、即詠の名歌酔眼もうろうの中でなぐり書きされた筆蹟が、
ふるさとに 帰り来りて まづ聞くは かの城山の 時告ぐる鐘
であった」と記しています。
朝鮮旅行と帰省
昭和2年5月、牧水は喜志子夫人同伴で約70日間、朝鮮各地を旅行しています。
この旅行で、牧水は健康を害し、帰途、坪谷に立ち寄っていますが、その前に叔父(長田勧善)が住職をしていた台雲寺に1週間ほど滞在し、休養しています。
台雲寺に到着し、牧水はまず休養を取り、健康回復に努めましたが、牧水の帰省を知った同期生や和歌を楽しむ人達の来訪が絶えませんでした。
牧水夫妻の部屋は、庫裏(くり)の二階の8畳と6畳の部屋で、東側と西側に窓がありました。境内は50年も経った杉の林が取り巻き、早朝には朝もやがかかっていました。
牧水は朝が早かったそうです。開け放した窓辺にあぐらをかき、もやのかかった杉林を見つめます。そして、寺の静けさを破って城山の時報の鐘が6時を報じます。そのような朝が続きました。
なつかしき 城山の鐘 鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに
この歌は、その二階で作られたもので、牧水は「叔父さん、歌が一つできた」と言って、歌を朗読しながら、幼い頃を偲び、涙ぐみました。
※この時の歌は、絹本に書かれ、昭和10年3月17日に建立された城山の牧水歌碑の歌は、この絹本の歌が写されたものです。
台雲寺での滞在が終わると、坪谷に帰って母を慰め、亡父の墓に参り、延岡から写真師を呼んで坪谷の風景を十数枚写されるなどしました。
牧水43年の生涯
昭和3年の春を迎えましたが、牧水の健康状態はすぐれず、歌もほとんど作りませんでした。
8月には口内炎を起こし食欲が減退し、そのうえ下痢を起こして衰弱、9月には病床に伏してしまいました。
病状は悪化の一途をたどり、9月17 日の朝、家族・親族・友人・門下生の見守る中、43年の生涯を閉じました。
遺体は荼毘に付され、沼津市の乗運寺に葬られましたが、分骨され坪谷に帰るも母親が存命中であり、「自分が一緒に連れて行くから」と、菩提寺に預けられました。
翌年、母が亡くなり、その際牧水の遺骨は母マキの胸に抱かせ、埋葬されました。
備考 | 【お問い合せ】延岡観光協会 |