旭化成の創始者、野口遵氏は、大正時代、工場建設の候補地を視察するため延岡を訪れました。野口氏は、まち全体が見渡せるという愛宕山の頂上から一望し、五ヶ瀬川や大瀬川から豊富な水が手に入ること、田んぼや畑が広がっていて広大な土地が確保できることなど、工場建設に適した場所であることが確認できました。野口氏は愛宕山の頂上からステッキで市内をぐるりと指し、「この土地を工場のために譲って欲しい」と地元村長や村会議員に伝えます。これを聞いた村長はすぐに土地の取得に動き、延岡への工場進出が決定しました。野口氏はその後、周辺町村の合併を提唱します。地元側はそうした難題にも積極的に協力し、恒富村や岡富村などを合併して、延岡町を発足させました。この延岡町が今の延岡市のもとになっています。つまり、旭化成がこの地に進出しなければ、今の延岡市は生まれていなかったかもしれないのです。東本小路にある野口記念館は、そうした野口氏の名前に由来したコンサートホールで、彼の偉業を称えて、館内には野口氏の胸像が設置されています。