西郷は軍の解散に際して、児玉熊四郎邸(現西郷隆盛宿陣跡資料館)の庭で、日本に一着しかない陸軍大将の軍服と戦死者の名簿などの書類を焼いたそうです。明治天皇から拝領した大将の軍服、ともに戦い命を落とした部下たちの名簿をこの地で灰にしたその意味とは?

和田越えの決戦で大敗を喫した薩摩軍は、北川町へと敗走し、可愛岳ふもとの児玉熊四郎邸に宿陣しました。その邸宅が現在は資料館になっており、さまざまな資料を展示しています。西郷隆盛は、鹿児島まで帰るため険しい可愛岳突囲を計画し、見事逃げ延びるのですが、その時の会議の様子が人形で再現されており、緊迫した空気が伝わってきます。

資料館敷地にある軍服が焼かれたと

される場所

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延岡市東本小路2番地1(3階)

北川陵墓参考地(可愛山陵)

明治10年、明治政府に反旗をひるがえした士族たちの反乱「西南戦争」が勃発。同年8月、西郷隆盛率いる薩摩軍は、現在の延岡市和田越にて山縣有朋陸軍中将率いる政府軍と相対し、「和田越の決戦」と呼ばれる激戦を繰り広げますが、善戦むなしく薩摩軍は北川方面へ敗走し、児玉熊四郎邸(現・西郷隆盛宿陣跡資料館)に宿陣しました。さて、この宿陣には大きな理由があったといいますが、それは、一体何なぜだったのでしょう。実は西郷隆盛は、この児玉邸に隣接する場所が「天孫ニニギノミコトの御陵墓」だったことを知っていたのです。山縣有朋率いる政府軍が、天皇家の祖先神である天孫ニニギノミコトの御陵墓に向けて鉄砲や大砲を打つことができないと考え、ひとときの安息を得たというのです。その邸宅でしっかりと軍議を開き、軍隊に解散布告令を出すと、険しい可愛岳を突破して祝子川や高千穂を抜けて九州山地を南下し、故郷の鹿児島へと帰っていったのです。この北川陵墓参考地は、西郷隆盛と天孫ニニギノミコトが時空を超えた歴史ロマンの舞台でもあるのです。

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和田越決戦となった理由とは!?

最後の軍議の内容とは!?

包囲したにも関わらず、政府軍が攻撃しなかった

その訳とは!?西郷が愛した家族との絆……。

西郷隆盛宿陣跡資料館やニニギノミコト御陵墓参考地、西郷菊次郎療養の地を巡るだけでなく、北川町俵野地区で西郷が何を思ったか、西郷を囲む人々が何を感じたかなど、パンフレットやガイドブックでは伝えきれないスポットや秘話を、有料ガイドならではの視点でご案内いたします。

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