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時空を超えた出会いの聖地

古の神話と歴史的英雄の知られざる浪漫に思いを馳せる

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えのたけ

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延岡市北川町俵野地区に「可愛岳」とよばれる山がある

 この地にはひとつの神話がある。

 それが高天ヶ原から高千穂に降臨した「天孫ニニギノミコト(天照大御神の孫で天皇家の祖)」が亡くなったとき、この地に葬ったといわれるものだ。日本書紀にもニニギノミコトを埋葬した場所として「筑紫の日向の可愛の山陵に葬りまつる」と記されている。「筑紫(九州)の日向(宮崎)の可愛」とはまさにここではないのだろうか。明治28年、可愛岳麓の古墳が宮内省(現・宮内庁)より「御陵墓参考地」として制定されている。

 もうひとつ、この地には歴史に関わる大きな事実がある。

 明治初期、世は西南戦争。明治維新の三傑のひとり、「西郷隆盛」にまつわる史実だ。

 明治10年8月、「西郷隆盛」率いる薩軍は現在の延岡市和田越にあって「山縣有朋」陸軍中将率いる政府軍と相対。「和田越の決戦」と呼ばれる激戦となった。兵力差は政府軍5万に対し、薩軍3千5百。薩軍は善戦するも北川方面へ敗走することになる。

「和田越の決戦」で敗れた薩軍は、この地の「児玉熊四郎」邸を大本営とし、西郷ら幹部による軍議を行う。そして、ついに16日、党薩諸隊に対して解散布告令を出した。

 解散布告令を出した後、「西郷隆盛」はこの地で明治天皇より賜った、当時日本に一着しかなかった陸軍大将の軍服を焼く。その後、可愛岳を突破し、西に進み北川町の祝子川、高千穂町の三田井を経て九州山脈を南下し故郷の鹿児島に戻る。

「西郷隆盛」は9月24日鹿児島の城山にて自刃し、51歳の生涯を閉じた。

 現在、「児玉熊四郎」邸は、「西郷隆盛宿陣跡資料館」となっている。

 この「西郷隆盛宿陣跡資料館」と「ニニギノミコト御陵墓参考地」は、隣り合うように存在している。

西南戦争で明治政府に反旗をひるがえしたとはいえ、尊皇攘夷を成した明治維新の立役者でもある「西郷隆盛」が宿陣した民家と天皇家の祖である「ニニギノミコト」の御陵墓がこんなにも近くにあるのはなぜか。

 ひとつの仮説が頭をよぎる。

 なぜ、西郷ら薩軍は追手の迫る中、この地に宿陣したのか。政府軍の布陣と兵力差を考えれば、安息の地などどこにも無い。

 それでも「西郷隆盛」は宿陣するためにこの地を選んだ。

 彼は知っていたのではないだろうか、この地に天孫「ニニギノミコト」が眠っていることを。

住所:延岡市北川町長井6727番地

電話:0982-46-2960
開館時間:午前9時~午後5時

休館日:
月曜日、祝祭日の翌日、年末年始(12月29日から1月3日)

入場料:一般200円/小中学生100円

 西南戦争の終焉を迎えようとし、政府軍の包囲が迫るこの地に宿陣した「西郷隆盛」の胸中には、この地が「ニニギノミコト」の御陵墓であるとの確信があったのではないか?

「山縣有朋」陸軍中将率いる政府軍が天皇家の祖である「ニニギノミコト」の御陵墓に向けて鉄砲も大砲も決して撃つことはできないことを知った上で、ひとときの安息を得たのではないか?

「西郷隆盛」は、陸軍大将の軍服を天皇家の祖が眠るこの地で焼くことで、反乱軍の将としてのけじめをつけたのではないか?

 思えば、陸軍大将の軍服を焼いたこの地で西南戦争は事実上終わっていたといっても過言ではない。

 この地に立つと歴史の波間に見え隠れするロマンを感じずにはいられない。可愛岳の稜線が天空の高天ヶ原を見上げる「ニニギノミコト」の横顔、日本の未来に思いを馳せる「西郷隆盛」の横顔にも見えてくる。

この地は、まさに「二人の時空を超えた出会いの聖地」なのだ。

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