延岡の歴史

安土桃山時代
  • 天正6(1578)年:大友宗麟(おおとも そうりん)が大軍を率いて日向に侵攻、臼杵(うすき)右衛門らを先鋒として土持氏を攻め、松尾城を陥した。
  • 土持氏第16代親成(ちかなり)は捕らえられ、その子親信(ちかのぶ)は薩摩に逃れた。
  • ※薩摩に逃れた土持親信は、「あがた」に来て旧臣を集め、島津氏と図って旧領を奪還したものの、後に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の九州平定戦で、日向に侵攻した秀吉の実弟・秀長(ひでなが)に松尾城を落とされ、島津氏も降伏した。
  • 天正15(1587)年:豊臣秀吉が九州を平定し、日向の諸侯を封じた。豊前の国香春岳城主高橋元種(たかはし もとたね)が九州平定の功により、縣3城と宮崎を与えられ松尾城に入った。
  • 慶長3(1598)年:高橋元種が「慶長の役」から帰国した。
  • ※文禄・慶長の役…豊臣秀吉による、1592~1598年の7年間に渡る朝鮮侵略。
  • 慶長5(1600)年:高橋元種は関が原の戦いに出陣し、最初は石田三成(いしだ みつなり)率いる西軍に属したが、途中東軍に転じた。
江戸時代
  • 慶長6(1601)年:高橋元種が縣城(後の延岡城)の築城に着手した。
  • 慶長8(1603)年:縣城が完成し、高橋元種は松尾城から縣城に移った。
  • ※縣城・有馬康純の時代から延岡城とも亀井城とも称した。今の城山公園で御本城と言われていたこともあったが、今は城山というのが一般的。
  • ※同年、江戸幕府が開かれ、徳川家康(とくがわ いえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられている。
  • 慶長12(1607)年:今山八幡宮で神事能が始まった。
  • 慶長18年(1613):高橋元種は罪人を隠した罪に問われ、改易(領地没収)となった。
  • 元種は陸奥国棚倉(むつのくに たなくら)現在の福島県棚倉町)城主、立花宗茂(たちばな むねしげ)預けとなり、子長吉(ながよし)は薩摩に走り島津家に仕えた。
  • 慶長19(1614)年:肥前島原の日之江城主、有馬直純(ありま なおずみ)が1万3千石加増の5万3千石で延岡に移封となり、西の丸(現内藤記念館)に居住した。
    また、同年、有馬直純は「大阪冬の陣」に出陣した。
  • ※有馬氏は、3代(直純、康純、永純)78年間延岡を領した。
  • ※大阪冬の陣…淀君ら強硬派は徳川家への臣従を拒否、家康、二代将軍秀忠(ひでただ)は、 20万の大軍で大阪城を包囲した。
  • ※石高(こくだか)…検地によって定められた玄米の標準生産量の表示方式で、1石は10斗、約180リットル。
  • 元和元(1615)年:有馬直純が川北地区に元(もと)町、紺屋(こんや)町、博労(ばくろう)町を作り、南町・中町・北町と合わせ6 町とした。
  • 寛永15(1638)年:寛永14年10月「島原の乱」が起こり、直純は江戸から、その子康純は延岡から出陣した。
  • 明暦元(1655)年:有馬康純(ありま やすずみ)が本城を修復し、二階、三階の櫓が完成した。
    また、柳沢(やなざわ)町を設け、延岡七町が完成した。
  • 明暦2(1656)年:有馬康純が蓬莱山八幡宮(ほうらいさんはちまんぐう)に梵鐘(ぼんしょう)を寄進した(鐘に「延岡(のべおか)」の地名が彫り込まれている)。
  • ※縣を改めて「延岡」とした時期については2説ある。
    城山の鐘の銘による明暦2年説と、江戸幕府の「御納戸日記」による元禄2年説である。
    延岡は城名であり、縣は藩名であるが、元禄5年に改めたのは藩名である。
  • 天和3(1683)年:本小路から出火し、本城に延焼して三階櫓が消失した。
  • 元禄4(1691)年:有馬永純(ありま ながずみ、後の清純)が越後国糸魚川へ5万石で移封された(後に丸岡へ)。
  • 延岡藩主支配下の臼杵郡山下陰村(今の東郷町)の農民1,422名が一斉に村を離れ、隣接する高鍋藩領股猪野へ逃げ込んだ。
    3年続きの不作に年貢軽減を願い出たが却下され、しかも商品性の高い楮(こうぞ)・ゴマなどの栽培を強要されたため、雑穀さえ不足をきたし、野草も食べ尽した農民は逃散を決行した。
  • 幕府は首謀者20余名を江戸に出頭させ、事情聴取ののち斬首、流罪、有馬永純を転封とした。
  • 元禄5(1692)年:三浦明敬(みうら あきひろ)が3千石加増され、2万3千石で下野国(しもつけのくに)壬生(みぶ)から延岡に入封した。
  • ※三浦明敬は元禄2年には、江戸幕府で若年寄を勤めた。延岡藩主として在城すること21年間、正徳2年に三河国へ転封となった。
  • 正徳2(1712)年:牧野成央(まきの なりなか)が三河国吉田より8万石で入封、飛地(大分郡、国東郡、速見郡、宮崎郡)が与えられた(牧野氏の延岡城主時代は8年、延享4年常陸(ひたち)国笠間(かさま)に転封となる。
  • 享保9(1724)年:家老藤江監物(ふじえ けんもつ)が郡奉行江尻喜多右衛門(えじり きたうえもん)に命じて岩熊(いわぐま)井堰工事に着手(享保19年完成)。
  • 延享4(1747)年:内藤政樹(ないとう まさき)が陸奥磐城国平(現在の福島県いわき市)から7万石で入封した。
  • ※以後明治維新に至る123年の間、延岡藩は内藤時代となる。
  • 慶応3(1868)年:大政奉還〔第15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)が大政を朝廷に奉還し、王政が復古した〕。
明治時代
  • 明治元(1868)年:慶応4年、明治と改元された。
  • 明治2(1869)年:藩籍奉還が行われ、内藤政挙(ないとう まさたか)が延岡藩知事に任命された。
  • ※藩籍奉還…各藩主が旧来領有していた土地と人民とを朝廷に返還したこと。我が国の封建制度を終結し、中央集権を促すための大改革で、各藩主は改めて藩知事に任命された。
  • 明治4年(1871):廃藩置県により、延岡藩が廃止され、延岡県が置かれた。
    内藤政挙が延岡県知事に任命された。
  • ※廃藩置県により、261の藩が廃止され、1使3府302県となる。藩知事つまり旧藩主は免官され、東京在住の華族となる。封建制度がここに名実ともに消滅した。
  • 明治4(1871)年:明治政府が「破城令」を発した。
    ※この破城令により、全国の城郭が壊されていった。
  • 明治6(1873)年:美々津(みみつ)県が廃止され、宮崎県が置かれた。
  • 明治9(1876)年:宮崎県が鹿児島県に合併された。
  • 明治10(1877)年:西南戦争勃発。延岡の旧藩士達は、延岡隊として薩摩軍に加わった。
    薩摩(さつま)軍は熊本で敗北し、次第に後退、8月14日には延岡も陥落した。
  • ※延岡陥落の際、東海(とうみ)沖から官軍の艦艇が城山付近に艦砲射撃を浴びせていたが、すでに官軍が延岡を占領した後であり、官軍は艦砲射撃をやめさせるため、城山の太鼓櫓を焼いて合図とした。
  • 明治11(1878)年:今山八幡宮にあった梵鐘〔明暦2(1656)年有馬康純寄進〕を城山に移して時鐘とした。
  • 明治16(1884)年:宮崎県が再び置かれた。
  • 明治21(1888)年:市町村制が公布され、翌年4月1日から順次実施された。
  • ※市制・町村制により市町村は自治体として確認され、条例・規則の制定権が与えられ、市会・町村会が設置された。
  • 明治22(1889)年:藩政時代の城下町に町村制を施行した(延岡町、恒富村、岡富村、伊形村、東海村)。
  • 明治27(1894)年:日清戦争が勃発、多くの者が徴兵された。
  • 明治32(1899)年:恒富村古城町に宮崎県立延岡(のべおか)中学校が創設され、若山牧水(わかやま ぼくすい)が第1期生として入学した。
  • 明治37(1904)年:日露戦争勃発。
大正時代
  • 大正5(1916)年:後藤勇吉(ごとう ゆうきち)が門川(かどがわ)湾で飛行練習を行い(5月)、同年9月、同じく門川湾で初の直線飛行に成功した。
  • 大正12(1923)年:日本窒素肥料株式会社延岡工場(後の旭化成)が延岡市の恒富に設置され、日本で最初の合成アンモニア製造を開始した(10月)。
    日豊線が全線開通した(12月)。
昭和時代
  • 昭和5(1930)年:延岡町、岡富村、恒富村の一町二村が合併し、新しく延岡町となった。
  • ※一町二村合併…工場建設に伴う敷地問題が動機となり、日本窒素社長野口遵と延岡町長、岡富村長(代理)、東海村長、恒富村長が昭和4年12月29日に協議したのが事の始まり。
  • 昭和8(1933)年:延岡市(のべおかし)誕生
  • 昭和9(1934)年:内藤政道(ないとう まさみち)氏が城山を公園用地として延岡市に寄付した。
  • 昭和11(1936)年:東海(とうみ)村と伊形(いがた)村が延岡市に合併。
  • 昭和14(1939)年:内藤政道氏が本小路の旧邸を延岡市に寄付。市は「内藤記念館」とした。
  • 昭和16(1941)年:12月8日、日本海軍の機動部隊がアメリカ合衆国のハワイを空襲、同日アメリカ、イギリスに対し宣戦布告。
  • 昭和18(1943)年:南方(みなみかた)古墳群が文部省の国史跡に指定された(42基)。
  • 昭和19(1944)年:銅鉄類を軍用として供出することになり、城山の内藤政挙公銅像(大正6年建立)は供出、時鐘(明暦2年鋳造)は、郷土文化財として供出を免れた。
  • 昭和20(1945)年:6月29日午前1時25分、太平洋沖から襲来した推定約60機の米軍機によって2時間に及ぶ焼夷(しょうい)弾攻撃を受け、延岡市の中心地域は焦土と化した。
    同年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏した。
    ※焼失世帯3,756、罹災人口15,233、即死者319、行方不明8
  • 昭和30(1954)年:南方(みなみかた)村、南浦(みなみうら)村が延岡市に合併した。
  • 昭和32(1957)年:今山に弘法大師(こうぼうだいし)銅像が建立された。
  • 昭和37(1962)年:それまで延岡各地で踊られていた「ばんば踊り」をベースに、延岡市民が皆で踊れることを目的に「新ばんば踊り」の歌曲が完成。
  • 新たな郷土芸能として延岡市民に広く浸透する。
  • 昭和38(1963)年:市民から浄財を募って、城山の時鐘を新たに鋳造し、二代目の鐘に代わる。
  • ※初代の鐘は、その後、内藤記念館に安置されている。
  • 昭和40(1965)年:祖母(そぼ)・傾(かたむき)・大崩(おおくえ)山系が国定公園に指定された。 同年、西階野球場がオープンした。
  • 昭和42(1967)年:昭和43年の年賀郵便切手のデザインに「のぼり猿」が採用された。
  • 昭和43(1968)年:西階(にししな)陸上競技場がオープンした。
  • 昭和49(1974)年:日豊海岸が国定公園に指定される。
  • 昭和54(1979)年:福井県丸岡(まるおか)町と旧藩主有馬氏の縁により、姉妹都市の盟約を結んだ。同年、延岡市民体育館がオープンした。また、宮崎国体が開催された。
  • 昭和55(1980)年:アメリカ・マサチューセッツ州メドフォード市と姉妹都市の盟約を結んだ。また同年愛宕(あたご)山に桜(1,000本)の植樹が完了。
  • 昭和56(1981)年:地場産品朝市「のべおか日曜市」が市役所前駐車場で始まった(毎月第一、第三日曜日)。
  • 昭和60(1985)年:須美江(すみえ)町に家族旅行村が開村した。
  • 昭和63(1988)年:明治初年から120年間続いた城山小動物園が閉園された。
平成時代
  • 平成元(1989)年:JR高千穂線が廃止され、高千穂鉄道(株)が開業した。
  • 平成2(1990)年:日本の滝百選に「行縢(むかばき)の滝」が選定された。
  • 平成3(1991)年:テレビネットワーク延岡(TNN)が開局した。
  • 平成5(1993)年:市制60周年を記念し、内藤正道(ないとう まさみち)氏が内藤家累代の武具・能面等 263点を市に寄贈した。
  • 平成6(1994)年:「ヘルストピア延岡」が開業した。
  • 平成7(1995)年:ビーチの森すみえ、ファミリー水族館がオープンした。
  • 平成8(1996)年:延岡市の水に関わる特色ある歴史や文化が評価され、「水の郷百選」に認定された。
  • 平成9(1997)年:福島県いわき市と旧藩主内藤氏の縁として兄弟都市の盟約を結んだ(5月)。
  • 第1回延岡城址天下一薪能が開催された(10月)。
  • 第1回城山かぐらまつりが開催された(11月)。
  • 平成10(1998)年:内藤記念館を含む城山公園を史跡延岡城址とし、市指定文化財とした。
  • 平成11(1999)年:延岡駅前広場が整備され、延岡市にゆかりの歴代オリンピック出場者手形・足形モニュメント27基が設置された。また、九州保健福祉大学が開学した。
  • 平成12(2000)年:愛宕(あたご)山展望台の改修工事が終了した。また、シドニーオリンピックに出場した延岡市ゆかりの選手達の手形・足形5基が、新たに駅前のモニュメントに加えられた。
  • 平成13(2001)年:須美江海水浴場が、「日本の水浴場88選」に認定された。
    また五ヶ瀬川の鮎焼きが「かおり風景百選」に認定された。